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ハンス・ウェグナーとアルネ・ヤコブセンによる "Aarhus City Hall" テーブルランプです。1938年、デンマーク第二の都市、オーフスの市庁舎新築計画に、建築家のアルネ・ヤコブセンとエリック・モラーの二人がプロジェクトリーダーに就任し、家具のデザイン担当として若き学生であったハンス・ウェグナーが抜擢され、オフィス用のテーブルランプとしてデザインされたものです。一般には販売されなかったものでしょう。塗装された亜鉛アルミのシェードに真鍮の支柱、塗装された鉄製のステムとの構成です。シェードは塗り直しされていますが、昔ながらの油性ペンキが使われています。ベースはオリジナル塗装で、この白色は貴重です。シェードの押さえのボルトが片側替わっている可能性があります。コンディションは概ね良好です。
ー以下は、デンマークのヴィンテージギャラリー「Dansk Møbelkunst Gallery」さんより、当時のウェグナーににまつわる情報を頂いております。ー
1938年、若干24歳のHans J. Wegnerは美術工芸学校の2年生でした。Wegnerの教師だったOrla Mølgaard-Nielsenが、Wegnerの並外れた才能に気づき、既に名を馳せていた建築家のArne JacobsenとErik Møllerを紹介します。ちょうどその頃、 JacobsenとErik Møllerはデンマーク第2の都市Aarhusの新しい市庁舎の設計を依頼されたばかりでした。2人はAarhusにスタジオを設立し、Wegnerは1938年から1943年までその事務所に勤務しました。当時はまだモダンデザインの世が明ける前の時代でしたが、Wegnerは市庁舎のオフィス用としてこのテーブルランプを含むユニークな家具や照明器具を数多くデザインしました。Wegnerは後に、プロジェクトの過程を次のように説明しています。
「私は市庁舎の家具をすべてデザインしました。当然のことながら、市庁舎の責任者でアイデアを持っているであろうErik Møllerと話し合いました。市庁舎新築プロジェクトに関わるメンバーは、私たち3人と管理職の上司とのわずか4人のみ。全員が非常に緊密に協力して市庁舎計画を進めることができました。もちろん、市庁舎の家具や照明はErik MøllerとArne Jacobsenによるものです。私はそこで多くのことを学びました。」
若きWegnerはランプや家具をデザインしましたが、それは当然ながら雇用主の責任です。しかし、Wegnerによるデザインの貢献は他に類を見ない、Wegnerでなければほぼ達成できなかったであろう独創的なアイデアと職人技とが融合した例であると広く認識されています。したがってこのテーブルランプは、特定のインテリアの要件を満たす表現力豊かな作品を生み出すWegnerの力量が現れた例となります。
「Dansk Møbelkunst Gallery」
Louis Poulsen 1938~1943
w-26, d-24, h-35cm
White lacquered shade and base, Brass stem
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Hans J. Wegner/ハンス・ウェグナー 1914-2007
デンマークのトゥナーに生まれる。父親は靴職人。17歳で家具職人の資格を取得。木材について専門的に研究を行う。1936年から2年間、工芸スクールに在籍した後、デザイナーとしての活動を開始。1940年、アルネ・ヤコブセンのもとオーフス市庁舎の建築プロジェクトに参加し、カンファレンスチェアや待合のソファなどのデザインを手がけました。また同年、ヨハネス・ハンセン工房に於いて家具製作をスタートさせています。1984年、デンマーク女王よりナイトの称号を授与。1995年、生まれ故郷のトゥナーに”ウェグナー美術館”が開館しました。氏は生涯に於いて家具デザイナーとして数々の名作を生み出し、国際的にも高い評価を受けています。
Arne Jacobsen/アルネ・ヤコブセン 1902-1971
デンマーク生まれ。父親は安全ピンとファスナーの貿易を営むユダヤ系デンマーク人。母親は銀行の出納係。画家を目指すも両親からの反対を受け断念。将来、より安定するであろう建築への道を勧められる。建築家を志す同級生のフレミング・ラッセンからも、絵画の才能も生かすことのできる建築設計としての職に誘われ、1924年、デンマーク王立芸術アカデミーに入学。デザイナーで建築家のカイ・フィスカーや、カイ・ゴットロブからの教育を受け、1925年開催のパリ万国博覧会デンマークパビリオンのための椅子の設計に参加する。在学中ドイツを訪問し、バウハウスで知られるミース・ファン・デル・ローエや、ヴァルター・グロピウスらの提唱する「合理主義建築」に感銘を受ける。1927年、アカデミーを卒業し、都市建築家のポール・ホルソエ建築事務所に入所する。同じ頃、マリー・イストラップ・ホルムと結婚。マリーの紹介で照明設計で時代を築くポール・ヘニングセンと知り合う。 1929年、フレミング・ラッセンと共にモダニズム様式の未来の家を発表。モダニズム様式の旗手のひとりとしてデンマーク国内に於いて一躍注目を集める。同年、自身の事務所を設立。コペンハーゲンの北に位置するクランペンボーの海岸沿いのベルヴュー地区に、レストランや劇場の隣接するリゾート型複合住宅を建設するコンペに当選し、1932年、ベルヴュー地区での大規模リゾートの第一歩を完成させる。ベルヴュー海水浴場では、特徴的な青い縞模様のライフガードタワー、キオスク、着替えキャビン、シャワー施設、チケット販売所、さらには従業員のユニフォームまで、あらゆるものを設計し、アール・デコ期の好景気も相まってデンマーク中の注目を集める。当初は高さ100メートルを超える建物に監視塔を兼ねた回転式の空中レストランを設計する計画があったものの、地元の反対が多数押し寄せ断念したとされている。ヤコブセンはヨーロッパ各国を回り、多くの古典建築に触れる。1940年代、デンマークがナチス・ドイツによって占領され、ユダヤ人であったヤコブセンはナチスによる迫害から逃れるため、1942年にポール・ヘニングセンと共に中立国のスウェーデンへ亡命。亡命中は建築設計は殆ど行われず、二人目の妻、ヨハナとテキスタイル・デザインを手がけ、文字通り「春」を待ちわびるかのような穏やかな花柄のテキスタイル作品を発表する。戦後帰国し、1946年、『スーホルム集合住宅』では非対称の屋根を採用するなど、新しい概念を取り入れたテラスハウスを発表。1950年代、後に世界的な評価を得ることになる家具や調度品のデザインを開始する。家具デザインのスタイルは、1952年発表のアントチェアによって確立され、その後も、スワン、エッグ、セブンチェアなどの、名作椅子となる家具作品を続けて発表した。1956年に竣工したデンマーク国内初の高層ビルであるSASロイヤルホテル(現・ラディソンブルーロイヤルホテル)では、建物の設計からインテリアデザイン、レストラン、照明、ドアハンドル、カトラリー類などを一貫して手がけた。1971年に着工したコペンハーゲンのデンマーク国立銀行はヤコブセンとしては初の国際的で大規模な仕事となり、しかし、その竣工を見ることのない遺作となった。