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Finn Juhl/フィン・ユールによるデザイン、Kay Bojesen/カイ・ボイスン工房の熟練轆轤師、Magne Monsen/マグネ・モンセンによるチークボウル、最大サイズのタイプです。当時は6タイプのレパートリーが展開されたようです。チーク材の塊から削りだしたもので、轆轤挽きでありながら楕円形へと形成されており、乾燥に時間を掛けながらゆっくりと削り出す必要があったと思われ、手間と時間を要した高品質な作りであることが伺えます。コンディションは良好です。
・以下は、カイ・ボイスン研究家の勝田正人さんによる見解となります・
フィン・ユールによるデザインのボウルシリーズは、当初アメリカでも製作販売する予定だったが、アメリカでの試作では、フィン・ユールの考える品質基準を満たすことができなかった。轆轤挽きには高い技術が必要であったため、デンマーク人の轆轤職人であるマグネ・モンセンが製作することとなった。1966年 (昭和41年) のプライスリストを見ると、リストには6種類のフィン・ユールのボウルが掲載されており、6種の内、最も大きく高価なものが今回紹介する37cm×17cmに該当する。当時の販売価格は395DKK (20,600円)。同時期の日本の大卒初任給が23,000円前後であったため、当時から高価なものであったことがわかる。
高価な理由は、①高い技術力が必要 ②高品質なタイ国原産のチーク材 (一級品) ③乾燥と削りを繰り返し行うため、製作期間を要する (推定数ヶ月)などが考えられる。
この個体は、ウッドボウルに本来あるべきはずの刻印がない。他のカイボイスンのものでも共通することで、刻印のないものは最初期のものであると云われている。刻印が必要になった背景は、海外に輸出するため何らかの印が必要になったと推測する。初期段階では海外に輸出することは考えていなかったのかもしれない。
Literature: Lars Hedebo Olsen「KAY BOJESEN LINJEN SKAL SMILE」Lars Hedebo Olsen
Kay Bojesen 1951
Teak
w-37, d-34, h-17cm
price: ¥1,700,000- 税込
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Finn Juhl/フィン・ユール 1912-1989
コペンハーゲン生まれ。父親は権威主義的な思想を持つ繊維卸売業。母親はフィン・ユールが生まれて間もなく他界。幼い頃から美術史家を夢見て育ち、十代の頃は各美術館に出向くなど、美術の鑑賞や研究に多くの時間を費やします。しかし父親は、美術の世界では生きられないであろうと考え、若きフィン・ユールに建築を学ぶ事を推します。1930~34年、デンマークの主たる建築家であり著名な講師のカイ・フィスカーに師事、デンマーク王立芸術アカデミーの建築学部で建築を学びます。学生だったフィン・ユールの能力を建築家のヴィルヘルム・ラウリッツェンが見出し、ラウリッツェン建築事務所に招き入れます。その後、10年間に亘り、ラウリッツェンの建築事務所に勤務。デザイナーのヴィゴ・ボイセンと緊密に協力し、デンマークラジオハウスのインテリアデザインの多くを担当します。現在復刻されているラウリッツェンのラジオハウスペンダントは、就労中のフィン・ユールによってデザインされたものであると噂されています。フィン・ユールは、ラウリッツェン事務所に所属しながらも、1937年には独自の彫刻技術を持つキャビネットメーカー Niels Vodderとの協働を開始。1938年に開催された第11回目のキャビネットメーカーズギルド展へ初出展します。しかし、人間工学を無視した構造と奇抜なデザイン、そして家具作りの教育を受けていない亜流からの流れという背景もあり、世間や業界から酷評を受けます。キャビネットメーカーズギルド展は、それまで続いてきたデンマークの古典的な様式を一新しようとする若きデザイナー達にとって新しいトレンドを発表する重要な展示会でしたが、それまでの重厚で豪華で装飾的な伝統主義に背を向ける姿勢となるプロジェクトは物議を醸し、中でも家具工芸の資格を有さないフィン・ユールの作品は、保守的なデンマーク人たちから多くの批判を受けたと云われています。しかし徐々に海外からの評価と需要が高まり出します。1945年、ラウリッツェン建築事務所を退社したフィン・ユールは、コペンハーゲンのニューハウンにインテリアと家具のデザインを専門とする自身のデザイン事務所を立ち上げます。1950年代に開催されたミラノトリエンナーレに出展した複数のプロダクトが金メダルを受賞すると、国際的な評価は更に高まり、1950年代には、より国外の市場へ向けた多くの製品を生み出すようになります。ノックダウンしたまま出荷できる製品なども開発し、盛んに輸出しました。その頃、ニューヨーク市の国連管理委員会会議室のインテリアデザイナーも務めます。1960年代以降は時代の流れも変わり、フィン・ユールの作品は世の中から一旦忘れ去られますが、1990年代以降は再び関心が高まり、当時作られたヴィンテージ品は各国のオークションで高値を呼び、プロダクトは「House of Finn Juhl」によって現在も復刻生産されています。
Kay Bojesen/カイ・ボイスン 1886-1958
デンマーク生まれ。ボイスンは20世紀前中葉のデンマークで、芸術家、職人、デザイナー、銀細工師、商人として活躍しました。商人の見習いとしてスタートし、最終的には芸術家となります。1906年、Georg Jensenシルバースミスで4年ほど銀細工師の弟子として働きました。当時のデンマークでは、Skønvirke/スコンヴィルケと呼ばれる過剰な装飾を施したデザインが流行しており、それに倣って装飾的で優雅なスタイルの作品を制作します。しかし、現代人としてのボイスンは、デザインの簡素化と、過剰な装飾の排除が新しく、よりシンプルで、新時代のライフスタイルに適していることに気づきます。ボイスンは、アール・デコがもてはやされている1930年代に、既にモダンデザインなスタイルでティーポットやカトラリーをデザインし、製作しました。ボイスンによる傑作は玩具に特化しており、その分野では真の先駆者でした。ボイスンは1935年にコペンハーゲンのブレゲード47番地に、カイ・ボイスン工房とショップをオープンさせます。ボイスンによる有名な衛兵隊は、1940年に国民の人気を博したクリスチャン10世国王の70歳の誕生日に関連して作られました。国王の馬上パレードは、ブレゲードのボイスンのショップの前を通過することになっており、ボイスンは国王の儀仗兵として、純色で塗られた高さ1メートルの衛兵4体を制作し、店の外に設置しました。赤、青、白の布と黒い熊皮の帽子をかぶったこの衛兵は国際的なデザインの古典となっています。同様に、人形や自動車や消防車、デンマーク人が「海のオウム」と呼ぶ、魅力的で珍しいツノメドリも製作。猿や像、シマウマやカバなど、人々の生活に密着したものから愛嬌のある動物シリーズを手がけ、デンマークに於ける国民的クリエーターとなります。ボイスンは社交的な性格で、特に米国のモダンデザイン界をはじめ、国際的な人脈も持っていました。芸術活動と経済、社会の発展との関係を早くから認識していたため、協会活動に参加し、手工芸の役割やその意味、諸条件に関する新たな考察が、一般の人々の注目を集めるに必要と考え、新聞にも反映するよう、パンフレットを執筆しました。ボイスンの芸術的プロフィールは、プロとしての真剣さ、妥協のない品質要求、献身、そして人生を肯定する過剰さとユーモアによって特徴づけられました。
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ー以下は、カイ・ボイスン研究家の勝田さんによるフィン・ユールとカイ・ボイスンの関係についての見解となります。ー
カイ・ボイスンとフィン・ユールは、イタリア (ポジターノ) への家族旅行も一緒に行くほど親しい友人関係にあった。ユールはその時のエピソードを語っている。「宿泊先での出来事ですが、宿のホストは私たち来客のためにできる限りの花の鉢を飾ってくれていたが、7月のイタリアは花がほとんどなく、せっかく飾ってくれたどの花も元気がなかった。その時ボイスンは色鉛筆とボール紙、接着剤を使って瞬時に色鮮やかな架空の花を描いた鉢を作ってくれました。」これは、いかにもボイスンらしい人柄が現れているエピソードであると思います。
共通点は、どちらも安定した経済状況の家庭環境で育ったことです。ボイスンのデザインした玩具も他のメーカーに比べて高価であったし、ユールの家具も富裕層向けのものが多かった。美術的な関心も持ち合わせた二人ですので、共通の話題も多かったのかもしれません。
1949年にフィン・ユールがデザインしたチークボウルを発表した後、明らかにユールのデザインに影響を受けたとされるヤーンホルダーをボイスンはデザインしています。お互いが影響を受け合っていたのでしょう。
勝田さんのインスタグラム: katsu_034