Luca Scandinavia | 北欧ヴィンテージ・工芸・アート
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Henry Moore
"Two reclining figures” Lithograph 1973

20世紀のイギリスを代表する芸術家で彫刻家のHenry Moore/ヘンリー・ムーアによる"Two reclining figures”リトグラフ作品です。1973年の作品で、横たわる一対の女性像が描かれています。銀箔のフレームはデンマークで設えらえれたもので、マットのみ交換しました。コンディションは良好です。

Llithograph on paper with original frame
edition: 18/100
signed: Moore
image: w-58.5, h-36.5cm
frame: w-70, h-46cm
ご売約となりました。ありがとうございました。

SOLD

背面に当時の販売店の書き込みがありましたので見えるように残しました。

デンマーク、ルイジアナ美術館の庭に展示されている "Two Piece Reclining Figure No.5"

Henry Spencer Moore/ヘンリー・スペンサー・ムーア 1898-1986
20世紀のイギリスを代表する芸術家、彫刻家。ウェストヨークシャーに生まれる。父親は炭鉱夫。父は音楽や文学に関心を持っていたが、ムーアを含む8人の子供達に専門的な高等教育を受けさせられないことを憂えた。ムーアは11歳の時、学校で粘土や木材による造形を美術教師に褒められたのをきっかけに、彫刻家になることを決心したが、早くから前途有望であったにもかかわらず、両親は彫刻を手工業的な労働に過ぎないとしてムーアの希望を認めなかった。1917年、18歳のムーアは第一次世界大戦に志願兵として従軍した。毒ガスで負傷するも命に別状はなく、復帰後は隊員の体操のトレーナーを務めたこともあり、他の隊員に比べ戦争体験はおだやかなものであったという。ムーアは当時を回顧して「私にとって戦争体験は漠然と英雄になろうと夢見ていたように思う。」と語っている。戦争中、ムーアは多くの母子の絵を描いた。
戦後、退役軍人の手当を受け取ったムーアは、リーズ芸術学校の彫刻科の最初の生徒として入学。やがて長年の友となるバーバラ・ヘップワースとクラスで出会った。さらに同学校の副学長であったマイケル・サドラー卿の教えによりアフリカの民俗彫刻にも出会う。卒業後はロンドンへ移住し、王立芸術大学、Royal College of Artにて7年間教壇に立つ。講義は週2日のみだったため自身の活動のための時間を得ることができた。1929年、絵画の学生であったイリーナと結婚する。イリーナは1907年にキエフでポーランド系ロシア人の両親のもとに生まれる。ロシア革命の混乱の折、父親は行方不明となり、母は英国陸軍士官と再婚しパリへ避難するなど、困難な幼年期を過ごした影響からか、イリーナは心のダメージを負った。しかしムーアとの結婚生活は心の安らぎをもたらし、徐々に明るく振舞うようになった。結婚後すぐに二人はハムステッドへ移住する。

ハムステッドは前衛的な芸術家たちによってコミューンが置かれ、各々が刺激しあいながら自由に活動し、統制のとれた場所であった。ほどなくして芸術家のバーバラ・ヘップワースと彼女のパートナー、ベン・ニコルソンが移住してきた。ロシア・アヴァンギャルドのナウム・ガボや、美術評論家のハーバート・リードもハムステッドに住んでいた。ハムステッドでの生活は芸術家達との交流をもたらすとともに、ハーバート・リードと相識となったことはムーアの知名度の向上を加速させた。1930年代初頭、ムーアはチェルシー芸術学校の彫刻学科の責任者となった。ムーアやヘップワースなどのメンバーはフランスを度々訪問し、芸術家のパブロ・ピカソやジャン・アルプ、アルベルト・ジャコメッティなど、同時期にフランスで活動していた芸術家と交流することで影響を受け、より抽象的な作品を生み出すようになった。1933年、ムーアはポール・ナッシュとともシュルレアリスムにも影響を受ける。ロンドンでの生活ではヴィクトリア&アルバート美術館や、大英博物館などで民俗学資料の情報収集を行い、原始的な美術や彫刻について学ぶ。ムーアとヘップワースの初期の彫刻はロマン主義のビクトリア朝様式に従ったもので、自然のかたちや風景、象徴的な動物のモデリングを主題とした。しかしムーアはその古典的な考え方や、抑圧的なものを徐々に不快に感じるようになっていった。アフリカン・プリミティブに対する関心と、彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシや、ヤコブ・エプスタインなど、他の彫刻家達の影響もあり、ダイレクト・カーヴィングと呼ばれる直彫りのスタイルを開拓していく。直彫り彫刻は完成後も材料の欠点や工具の削り痕などが残ったものとなり、そういった未完成感、つまり「新たな表現」を美術として認めない教諭との争いも起こった。
この創造的で生産的な期間は第二次世界大戦の勃発で止まってしまう。チェルシー芸術学校は疎開となり、ムーアは教職を辞すことになった。戦争中ムーアは戦争画家を任じられ、空襲を避けるために地下鉄や防空壕などで寝泊まりするロンドンっ子達の姿を力強くたくさん描いた。その成果は彼の国際的、特にアメリカでの評判を高めることになる。ハムステッドの彼らの家は爆撃で破壊されたため、ムーアとイリーナはロンドンを脱出しハートフォードシャーのマッチ・ハダムという小さな村の農家へ移転した。そこは彼にとって最後の作業場、そして安住の地となった。ムーアはその後の人生で大きな富を得ていくが、より広く贅沢なところへ越そうともせず、作業場をわずかに変更する程度と、極めてストイックな一面を見せた。

第二次世界大戦後、ムーアの作品、特にブロンズ像は、パブリック・アートの注文が後を絶たず、モニュメント並みの規模となっていった。その作業をこなすため直彫りをあきらめ、雛形を作るため助手を何人か雇い入れることになる。ブロンズ像の題材は抽象化された人体像、とりわけ「母と子」や「横たわる女性像」であり、そのモチーフのほとんどが女性の身体だった。人々は、ムーアの作品、横たわる身体に現れる起伏を、故郷ヨークシャーの丘の連なりを表現したものと解釈している。イギリスの美術界から、そして美術史家で一代貴族のケネス・クラークから大いに援助を受けてきたムーアは、イギリスに於けるモダニズム芸術を世界へ広める事に大きな役割を果たし、イギリス美術を国際的な位置付けにすることに大きく貢献した。大規模なモニュメントなどの注文をこなす能力に長けたこともあり、美術家としては並外れた巨額の富を手にした。しかしムーアは贅沢することなく質素な生活を続け、その富のほぼすべてを「ヘンリー・ムーア財団」の基金として寄付し、大衆への芸術教育とムーアの彫刻の保存を活動目的としたギャラリーと、ムーアの工房の博物館であるホグランド(Hoglands)が運営されている。
Henry Moore - 101 drawings(当作品は出てきませんが、様々なドローイングを閲覧することができます)